広島大学案内2024-2025概要版
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07藤原 そうです。結局それが、前職までにつながる私のキャリアとなりました。越智 米国でもたくさん研鑽を積まれたそうですが、いつの頃ですか。藤原 国立がんセンターで6年間務めた後、広島大学に戻り、助手で5年ほど勤務した頃のことです。その間1年弱は学振(日本学術振興会)の公募に受かり、メリーランド大学で学びました。広島大学の総合診療部では、午前は各科で引き取っていただけない患者さんの診療、午後は助手たちで大学病院に飛び込みで来られる一次・二次救急の患者さんの初診、各科への振り分けを、大学時代の先輩・後輩の伝手を駆使してやり、夕方は所属する医局の入院診療・カンファレンス、夜から朝にかけては、自身の研究と大学院生の指導をやるという生活でした。総合診療部のスタッフは皆、梁山泊のような方たちで楽しかったです。越智 お生まれは確か米国ですね。英語は苦労されなかったのですか。藤原 米国生まれなのですが、生まれて約1年しかいませんでした。ただ、英語に不自由を感じなかったのは、広島学院時代に、ネィティブスピーカーの先生らから単語と発音はしっかり教わったからだと思います。越智 臨床薬理学へ進まれたのは、米国から帰国後ですか。藤原 そうです。当時は「薬物動態」や「薬力学」の分野が注目されていました。例えばぜんそくでは、ネオフィリンの血中濃度を調べ、適正な治療につなげていましたが、その手法を抗がん剤に導入できないかと考えていました。点滴も人によって対処能力がまったく異なるため、それが効果や副作用にどうつながるのか、非常に興味があり、越智 その後は国立がんセンター中央病院で医長や臨床検査部長、さらに副院長も2度務められましたね。藤原 ええ。1回目は2010年から2年間、経営担当として副院長に就き、その後、国立がんセンター全体の運営に携わりました。2017年頃に2度目の副院長を拝命した時は、臨床研究中核病院の申請と認定後に活動を軌道に乗せるノウハウが必要ということで、研究担当の副院長でした。越智 経営への対応が求められ、ある意味、研究者から経営者へ変貌されたわけですが、異なる職務内容に違和感はなかったですか。藤原 確かにありました。しかも私が経営米国留学の際に研究を深めたいと考えていました。越智 そこから臨床薬理学へつながったのですね。先生は、さまざまな分野でご活躍されていますが、一番の研究は何でしょう。藤原 やはり抗がん剤耐性の機序に関する研究ですね。多くの若手を指導し、論文もたくさん書いて、ある程度インパクトファクターの高い英文学術雑誌に掲載されました。しかし、「ネイチャー」や「サイエンス」には取り上げられず、それで研究者の道を諦めたんです。越智 そうですか。ずいぶん惜しい気もします。現在、広島大学の医学部では、英語の論文数および、論文の被引用数で各分野の上位10%に入るTOP10%論文が、中四国で5年間1位ですが、「ネイチャー」などは難しいですね。その後の進路はどうされましたか。藤原 国立がんセンターで肺がんの化学療法を主体に、特にフェーズ1の専門家になろうと考えました。国立がんセンターなら、研究面も比較的恵まれており、人材育成も可能です。当時、全国から集まった人材の教育・研修を担当していたので、現在各地で活躍中の知り合いがたくさんいます。広島や島根にも顔なじみの方が何人かいらっしゃいます。を担当していた時は、ちょうど国立から独立法人への移行期で、大赤字になりかけていました。十数人いた経営陣が総入れ替えとなり、残ったのは私を含め3人だけ。有無を言わさず、経営に注力せざるを得ませんでした。越智 そんな厳しい状況をどう乗り越えられたのですか。藤原 経営担当と言ってもまったくの素人ですから、たまたま知り合ったマッキンゼー・アンド・カンパニー(米国の大手コンサルティング会社)の方にお願いしたところ、経営分析などで支援してもらえ、利益を生む方法などを学びました。その後の臨床研究事業を始める際も、研究で利益が出せる組織にしたいと再度、ボストン・コンサルティングに移られたその方にサポートをお願いしました。約半年間、数人のチームが経営を分析してくれた上、米国の有名な病院の事例も見せてもらえ、大変助かりました。越智 なるほど。経営の専門家から直々に学ばれたのですね。異分野に挑む際は、思い切ってプロの手を借りることも大切ですね。メリーランド大学がんセンターでは先端治療開発部でスタッフとして働いたFujiwara Yasuhiro1960年米国・イリノイ州生まれ。84年広島大学医学部医学科卒。89年国立がんセンター研究所薬効試験部研究員。その後、広島大学附属病院総合診療部助手へ。この間、シカゴ大学医療センター、ジョンズ・ホプキンズ大学腫瘍センター、メリーランド大学がんセンターで臨床薬理学・腫瘍内科学を研鑽。帰国後は国立衛研・医薬品医療機器審査センター(PMDAの前身)へ着任。02年4月に国立がんセンター中央病院へ転任。10年副院長。11年内閣官房医療イノベーション推進室次長を兼任。19年医薬品医療機器総合機構理事長。20年〜日本学術会議第25期・26期会員。研究者からがん化学療法の専門医へいきなり経営担当、プロに指導乞う藤原 康弘氏

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